
武田信玄で有名な源氏の名門武田氏。甲斐武田氏は滅んでしまいましたが、鎌倉時代に西国に赴任した広島の安芸武田氏はその後戦乱の世をしぶとく生き抜き、嫡流が現在まで脈々と続いているのをご存じですか?
そんな安芸武田氏が居城とした広島市安佐南区の武田山に眠る銀山城(かなやまじょう)は難攻不落の知る人ぞ知る全山要塞、中世第1級の山城跡。数々の伝説に彩られた悠久の歴史の挟間に埋もれた天空の城、銀山城への旅に皆様をご案内しましょう!
安芸武田氏とは・・・

今を遡ること800年昔の鎌倉時代、甲斐の国にいた武田信光は1221年、承久の変の戦功により安芸国の守護に任じられました。その後文永11年(1274年)の蒙古襲来に際し、防戦を命じられ安芸国に下って来た武田氏は、鎌倉時代末期の武田信宗の時はじめて銀山城を築きました。当時は山陽道もまだ海岸側でなく、太田川を渡ってからは武田山の北側へ回って伴や石内から西国へ抜けるコースになっていました。また山陰の出雲、石見地方へ向かう雲石街道もここを通っており、瀬戸内海も近く水運も盛んで水陸の交通の要衝に位置するここを拠点に支配を進めました。
その後第9代の武田元繁は武勇に優れ、足利10代将軍義稙の部下として京都でも活躍し、勢いづいて安芸の国々を攻め従え大きな勢力となりつつありましたが、毛利元就との戦いで討死したため、その子、武田光和 (みつかず) が後を継ぎました。その後周防(山口)の大内氏による再三にわたる銀山城攻めを防ぎ切り、この地を守った光和でしたが病には勝てず病死。そして遂に1541年、毛利元就によって滅ぼされてしまうのです。
銀山城の全貌!!~中世第1級の山城

銀山城は広島市安佐南区祇園から大町、相田、沼田伴にまたがる武田山(411m)にあり、たくさんの遺構を見ても分かるように文字通り全山要塞。中世第1級の典型的な山城です。東側の祇園側からみると、お椀を伏せたような形で南北はなだらかですが、東西は険しく切り立っています。東の祇園側を大手口として登って行き、馬返し(馬の登れる限界地)、御門(大手門)、本丸、出丸、見張台や米蔵、そして頂上館など郭が50数ケ所あり、頂上近くには観音堂なども備えていました。昭和30年には標高250m以上が広島県史跡にも指定され、後世に引き継いでいくことが決められました。また銀山城の城下町でもあった東側麓の祇園の町には、鎌倉時代に東国から勧請したと言われる歴史の古い神社が5つ、また銀山直下の龍原(たつばら)には「龍原12坊」と呼ばれる12箇寺が建立され、往時は随分と賑やかだったと推測されます。
大手口~武田山(銀山城)登山口

JR広島駅から可部線に乗って約15分、5つ目の下祇園(しもぎおん)で下車して北へ10分程歩くと武田山(銀山城)登山口。山から流れ下る小川に沿ったなだらかな登山道を登って行きます。本格的に山に分け入る前の山裾辺りの現在祇園中学校がある辺りは昔松尾山と呼ばれ、当時は武田氏や家臣たちの館があったと言われますが、昭和40年に中学校が建てられ現在では定かではありません。
馬返し

正面より登って行くと、しばらくなだらかですが徐々に険しくなり、そのうち息も絶え絶えになってきます。途中途中に巨石が多く、山城でもあったことからわざと巨石の傍に登山道をつけたようです。道も狭くなり、ここより先は馬では登れないという辺りのちょっとした平地を「馬返し」と言い、ここで馬を返してこれより先、荷駄は人の手で運んだとされています。
またこの近くに「倉庫跡」もあり、昔は辺りの土から炭化して真っ黒になった米がたくさん掘り出されていたと伝えられています。
御門跡~銀山城大手門

馬返しから険しさの増す坂道をさらに登って行くと、少しだけなだらかになる地点があります。ここが銀山城大手門であり「御門跡」と昔から呼ばれています。一帯はゴツゴツトした巨岩がゴロゴロしており、ここで登山道は直角に曲がって頂上に向かっています。これは敵の攻撃を防ぐためで、中世山城の典型的なカギ型で近世の平城には必ずある「桝型」の初期の形態と言えます。麓から来た者をこの中で調べて城内に入れたと言われています。

千畳敷~本丸跡
御門跡からさらに登って行き頂上の真下あたりにかなり広い平地があります。ここは通称「千畳敷」と呼ばれていて、銀山城で最大の館である本丸が建てられていました。あたりには背丈は低いが骨太の小振りの竹がたくさん密集して生えていますが、これらは「矢竹」と言われ当時弓矢にするために植えていたものが今でも群生していると言われています。


頂上館跡

千畳敷からあと少し、最後は切り立つような大岩の間を這い上がるようにして登ると遂に頂上へ到着。そこには「なんでこんな山の頂上に巨石が!?」と信じられぬほどの巨岩の数々・・・その巨岩のひとつひとつにお城を建てたときの柱を据え付けた跡なのか、明らかに人工的な穴や切り込みがくっきりと見られます。
中でも頂上中央辺りのひと際大きく目を引く見上げるような大岩は、「御守岩」と称され、昔は岩の上に小社や鳥居もあって信奉されていたということです。

目を南側の下界に転ずると、それは素晴らしい絶景!広島湾に6つの川に分かれて注ぐ太田川の流れに沿って広島市のデルタが扇形に広がり、その向こうには瀬戸内海が。晴れた日には遠く島々までが見渡せます。まさしく扇の要を押さえる位置にあり、古来より武田氏がここに城を構えて拠点とした理由がよくわかります。

鶯の手水鉢

頂上館跡の巨石群の北側に人の腰の高さほどの岩の上部が鳥の形になって人工的に彫られたくぼみがあり、その中にいつも雨水が溜まっています。鳥の形に似ているからか、それとも鶯が飛んできてこの水で喉を潤して鳴くからつけられたのか、今では定かではありませんが、誰が呼ぶともなく「鶯の手水鉢(ちょうずばち)」と呼ばれています。この岩の水は日照りでも乾いたことが無いとか、海の潮の干満でこの水の水位も変わるのだとか、色々な言い伝えが地元には残っています。
見張台と観音堂跡

頂上から北へ尾根沿いに少し降りたところに空掘りがあり、その先に明らかに人為的な溝の刻まれた平たい巨石があります。ここは北側に眺望も開け、この岩の上には見張台として櫓があったと言われています。反対に、頂上から南へ少し降りた辺りの平地にあるのが観音堂。ここは休息の場所として使われたり、戦略の密議が行われたりしたところで、また戦に敗れた時の自刃の場でもありました。説明板の裏手に今も古こけて崩れた石垣の一部が落ち葉に埋もれているのが見えます。

武田光和伝説

武田氏の銀山城第10代城主、武田光和は武勇に優れ相当な豪傑だったらしく、「陰徳太平記」という江戸中期に書かれた軍記物に数々の逸話が記されています。中でも周防(山口)の大内義隆軍2万5千に銀山城を攻められた大永2年(1525年)の戦いでは先頭に立って戦い、味方が劣勢の時、10人力の鉄の弓で敵方をバッタバッタと射倒し、「保元の乱の源為朝や屋島の戦いの平教経でもこれほどではあるまい・・・」と恐れられ、少人数で銀山城を守り切ったと言われます。
また光和は傑出した大力で、銀山へ登る途中に50~60人掛かりでないと動かせない大岩が出て人々が困っていましたが、光和は力試しにと、一人で軽々と谷底に落としてしまったといいます。城の南麓の祇園帆立に「いぼ地蔵」という祠がありますが、これは別名「投石地蔵」と言って、光和が武田山から投げた石を祀ったものであると言い伝えられています。
またある時は、里の古い文珠堂に化け物が出てたくさんの人が化かされていると聞くので退治に行くと、夜中に琵琶を弾く盲人の年寄りがやって来たので、さては物の怪の類かと絞め殺したところ、翌朝見てみると子牛ほどの大きさの古狸であった・・・等々、光和に関する伝説は枚挙にいとまがありません。
余談ですが、光和には嫡子が無く、庶子(妾腹)の武田小三郎が後に見出され、毛利元就の家臣となり、関ヶ原の戦いの後はそのまま毛利家家臣として山口に住みつき、周防武田家として現在まで武田氏の血脈が受け継がれています。

銀山落城
そんな豪傑、武田光和も病には勝てず、天文9年(1540年)、33歳の若さで無念の内に病死してしまいます。光和が死んだ時には黒雲が空にたなびき、雲の中に鎧のすれ合う音、刀と刀のかち合う音などがして、その後の銀山は奇怪なことばかり起きる大魔所となり、光和は「最期の一念により成仏せず修羅堂に入り魔王となり、夜な夜な現われて銀山を行く人々を脅かしていた」と言い伝えられています。
光和が無くなった後は、武田家の家臣団もまとまらず、次第に弱体化してついに天文10年(1541年)、毛利元就は油に火をつけた千足の草鞋を夜の太田川に流し、城の正面から攻めると見せて城の裏側から攻めるという計略で、ついに300年続いた難攻不落の銀山城も攻め滅ぼされてしまいました。
その後、毛利氏が広島のデルタに進出して平城の広島城を建てたことで銀山城は用済みとなり、その後は荒廃の道をたどります。あれから500年・・・麓の町には武田氏の作った神社やお寺が細々と今でも残されて続いて往時を伝えています。
そして武田山は中世の山城の史跡をふんだんに味わえる里山として、今ではたくさんの人々のハイキングコースとして地元の人々に愛される場所。あなたもぜひ一度、天空の城、銀山城跡に登ってみてはいかがでしょうか。